メモ書き
ブライアン・トレーシー 「達成の心理学」
07 心のブレーキをはずす
否定的感情の研究の中で、最も重要な発見、それは否定的感情を持ち続けている限り、健康、幸福、愛、充実感を手にすることも、前に進むことも望めないということです。 この感情の長所があるとすれば、フロイトの言うように、それは永久的なものではないという、この一点です。 潜在意識の中で、この感情が永遠に居座れる場所はありません。 言い換えれば、招かれざる客と言えるでしょう。
こうした否定的な反応や行動パターンは、取り除くことができます。 それがどこから来たのか、原因を突き止めることから始めましょう。 それにはまず、大人になった今でも抜けきれないでいる否定的にものを見る習慣が芽生え育った子ども時代にまでさかのぼって考えることが必要です。 幼年期の環境が大切なのです。
前に、この抑圧的、かつ強迫観念的この否定的感情のそもそもの発端は、激しい叱責を受けたことだと申し上げましたね。 この無思慮とも言える叱責は、すべてを壊します。 それによって、子どもは心が傷つき、表に放り出されたような気持ちになるのです。 人格が傷つき、破壊し、また自尊心を貶めるものとしてや、この無思慮な叱責以外は、思いつく限り他にはないでしょう。
激しい叱責は、殺し屋と言えます。 なぜ、そんなに悪いのかというと、子どもというのは幼年期から成長期の間は、両親の深い愛情を必要としているのは、みなさんもよくご存知の通りです。 事実、精神科医も心理学者も、心の病の第一の原因は、子ども時代に十分に親の愛情を受けられなかったことにあると言っています。
感化力を持つ人、すなわち、子どもにとって大切な人というのは、子どもに驚くほど大きな影響を与えます。 それに子どもというのは、6歳くらいになるまでは親から叱られても、それが正当なものかどうでないかを見分けることはできません。 特に、両親とか年上の兄弟、親戚などの感化力を持った人、あるいは大切な人の言うことは、すべて真実だと受け止めてしまいます。 そうです。正当性のある意見として受け止めます。
もし、母親に悪い子ねと言われ、父親からはお前は怠け者だと言われ、周りの人から当てにならない子とか、本当に不器用で可愛くないダメな子だねと言われると、子どもは正当性を見分けることはできませんから、すべてを正しい意見として受け入れてしまうのです。 それは意識を通り抜け、潜在意識へと直進し、蓄積されます。 そして、大人になっても、子ども時代にインプットされた否定的な情報を基盤として生きているので、自分はこんな程度さとか、昔からこうなんだとか、中には、これは家系でね、父親もそうだったし、子どもだってそうだよ、そうそう母親もそうだった、などと言うようになるのです。
どうでしょう。 家系なんてことは有り得ないのです。
例えば、私が成長期の頃は、大変な状況で、両親は大変なダメージを受けました。 ですから、その時代に何かをねだろうものなら、私の両親はキッとなって、うちにはそんなゆとりはないんだ、そんなゆとりはない、そして経済的、精神的ゆとりも無く、私の両親は一生を過ごしました。 ですから、私はこういう環境で育ったので、自身では恐慌を経験したわけでもないのに、10年、20年、30年、40年経った今でも、私にはそんなゆとりはない、私にはそんなゆとりはないと言ってしまうのです。 親がいつも深刻に言っていたことを、今でも影響を受けているのです。
あなたも私のように、いつも父親から何度も繰り返し、お前は何でも途中で投げ出す、お前は何でも途中で投げ出す、と言われませんでしたか。 私は大人になっても、物事を終わりまでやり遂げるのは大変苦手でした。 もうすぐ終わりになるという端になると、どうにかそれを遅らせる口実は無いものか必死になって探し出そうとしました。
さて、否定的感情を持つようになる第二の要因、それは愛の欠乏です。 子どもの人格は、両親が与える愛情の質の高さと、その量に応じて成長します。 愛情の量と質に正比例して、健全なる人格が育っていくのです。 愛情の不足とか愛情の欠乏が、成人時の不幸、否定的感情、心の病を引き起こす元となります。
さて、子どもが真の愛情を感じるには、高い自己概念を持つ両親であることが絶対条件ですが、残念ながら、多くの両親は彼らの両親の犠牲で、その両親はそのまた両親の犠牲者という具合なのです。 ある作家の言うように、みんな各々が犠牲者の犠牲者というわけです。 私たちの両親にしても、できるだけ良い方法で子どもを育てるつもりはあったのですが、彼らも犠牲者の一人なのです。
子どもが両親の豊かな愛情を感じるには、3つの条件があります。
第一の条件、これは両親が自分自身を愛していること、自分自身に対する愛の深さ以上には、他人を愛することはできないということを知っていてください。 自分すら愛せないのなら、子どもを愛することなどできません。 ホンの少しでも自分を愛しているなら、その愛を子どもに広げてください。 自分に対して少し愛情があったとしても、誰かにその愛を傷つけられると、子どもを愛したいと思っても愛そのものが無くなり、子どもを愛することができなくなります。 あなたの両親だって、あなたを愛したいと思ったはずです。
第二の条件、これは両親が互いに愛し合っていることです。 子どもが自信、つまり、自分が愛され安全で守られてると時間して育つには、まず、愛し合っている両親の存在が必要となります。 子どもにとって両親がいつも喧嘩ばかりをしていたり、両親の間に愛情も無く、生活の苦しい環境で育つことほど恐ろしいものはありません。 というのは、大抵の場合、子どもが第一の犠牲者となるからです。 こんな環境では、子どもはいつも怒鳴られるので、両親の仲が悪いのは自分のせいだと思ってしまいます。
さて、興味深い調査結果があります。 今日、片親だけの家族は数多くありますが、こうした別居とか離婚によって片親だけの家族になりますと、子どもというのはもう一方の親が出て行った原因はきっと自分にあると思い込んでしまうというものでした。 ですから、結婚生活が破綻し、片親が居なくなる場合、子どもを引き取った父親、あるいは母親が、子どもに、自分たちの関係がうまくいかなくなったのはあなたには何の関係も無く、自分たち自身の問題からなのだと、何度も何度も言って聞かせることが非常に重要になります。 子どもが自分のせいだと確信しないうちに、何度も繰り返し言って聞かせることが必要です。 もちろん、いがみ合ってばかりいる両親の元より、片親でも自分を愛してくれる親の元で育つ方が、子どもにとっては良いのかもしれません。
さて、第三の絶対条件は、両親が子どもを心から愛していることです。 たとえ子どもを愛していたとしても、その愛が心からのものでなくてはなりません。 わかりきったことで、理にも適っていますよね。 しかし、実際のところ、こんなことを考えるだけでも辛いのですが、両親が心から自分を愛していなかったということは有り得るのです。 そのつもりもあり、愛したいとも思い、愛情の対象として見てもいたのですが、夫婦の対立があったり、両親とのいざこざや戦争、不況があったり、仕事やその責任などで忙しく、そこまで気が回らなかっただけなのです。 ただ、そこまで気が回らなかっただけなのです。 生活が苦しかったかもしれません。 その気持ちはあったのに、気が回らなかったのです。
子どもを本当に愛することは、子どもと質・量ともに十分な時間を過ごしてはじめて成せるものなのです。 質・量ともに十分な時間を過ごすことです。 一日に十分程度ではダメです。 子どもは自分たちにとって一番大切な人が、自分と過ごしてくれるその時間の長さに応じて、自分の価値を図ります。 一番大切な人、つまり両親がわずかな時間しか一緒に居てくれないのは、それは自分に原因があると思い込んでしまうのです。 何か自分に決定的な欠陥があるから、両親が一緒に居てくれないのだと思ってしまいます。
子どもとは理性ではなく、感情だけで考えます。 つまり、両親が居るときは愛されていると感じ、一緒に居てくれないのは愛されていないのだと思うのです。 ですから、子どもの成長期にはこの三つの条件は最低必要条件となります。 自分を愛していない両親だったり、両親の仲が悪かったり、あるいは、そのつもりはあってもゆとりが無く愛情が注げないと、子どもはいつも酷い叱責を受けるため、罪悪感を持って成長していくのです。
罪悪感とは、自分が価値の無い存在だと感じることです。 こんな気持ちになるのは、自分の人生で最も大切な人から必要としてる愛も与えられず、絶えず激しい叱責を受けたことが原因です。 自分が価値の無い役立たずな存在と感じてしまうのです。 自分は価値が無い存在だと思わせます。 罪悪感は、無価値を生み出します。 自分は価値がない。
この罪悪感、自分が価値の無い存在だという感覚は、今世紀の問題となっている心の病の大きな原因となっています。 とりわけ、人間関係の悩み、心身症など、現代社会を悩ます殆どの問題は、心に深く根付いた罪悪感と、自分は大した人間じゃない、自分は大した人間じゃない、大した人間じゃないという考えが見え隠れする、この無価値感に原因があると言えます。
前にも自尊心が如何に大切かということを説明しましたね。 つまり、自分が好きだ、自分が好きだ、自分が好きだという気持ちのことです。 小さい頃からひどく叱られ育った人というのは、自分を好きになれないばかりでなく、人の役に何も立っていない、自分をいつも感じるようになります。 そう、自己嫌悪に陥っているのです。 自分を嫌だと思い、自己非難をしています。 そういう考え方は、会話や人間関係に伺うことができます。
自己嫌悪を持っている人は、自分では良い人間関係を持ちたいと思っていても、その能力を持ち合わせていません。 自分を役立たず者といつも思っていると、人にもそれがわかるものです。 困った問題です。
では、罪悪感の主たる原因とは何でしょう。 実際はどこから来るのでしょう。 これには3つの否定的根源があります。 それは、否定的両親と否定的影響、否定的宗教の3つで、そのいずれもが罪悪感を悪用します。 特に、両親と宗教による自己非難は、2つの理由でこれを意図的に利用しています。
その一つは、罰を与えるためです。 子どもが何か悪いことをしたとき、自分が悪かったと感じさせるには罰を与えるのが一番簡単です。 親というのは、体罰、あるいは口で酷く叱って悪かったと感じさせようとします。 罰を与えることは、子どもを服従させたり、自分の思い通りにさせるには最も手っ取り早い方法なのです。
もう一つの理由は、良心に問うためで、宗教団体などはこれを意図的に利用して、管理、つまり人の感情をコントロールしようとします。 人の感情をコントロールするためなのです。 罪悪感をうまく利用すれば、人の心をコントロールでき、その行動をも操れるからです。 多くの宗教団体が、人をコントロールする道具としてこの罪悪感を利用しています。 もし、人の心をうまくコントロールできるのなら、その人は人のお金や時間、協力、才能などを思いのままに操れます。 事実、多くの組織には罰則があり、罪悪感をそのための道具に使っています。
良くテレビで宣伝しているチャリティー、特に恵まれない子どものチャリティーとか、身体障害者のチャリティーなどは、これを利用したものです。 これは、自分だけヌクヌクとしていて恵まれない人たちに悪いとは思いませんか、幾らかのお金さえ送れば少しは罪の意識も薄らぐでしょう、と言っているようなものです。
こんなことは日常茶飯事ですが、なぜこうも多いのでしょうか。 それは第一に、誰もが多少の差こそあれ、罪悪感を持っているからです。 第二に、最も簡単だからです。 親が子どもの罪悪感を利用するのは、なぜだと思われますか。 それはどんな場合でも、子どもをコントロールできるからで、どんなに遠く離れていても可能なのです。
親が子どもの罪悪感を利用するのは、自分たちもそうされてきたからなのです。 最も簡単な方法で、何の努力もいりません。 チラッと子どもを見て言えば良いのです。 人は最も楽なやり方を選ぶものです。 くれぐれも注意してください。
さて、こんな風に絶えずあなたも罪悪感を植えつけられて育ってきているので、きっとお分かりになると思いますが、この罪悪感というのは、ゴミ溜め、あるいは心や潜在意識に巣食って、あらゆる否定的な感情を育てるバクテリアのようなものです。 それは怒り、憎しみ、羨望、恨み、フラストレーション、欲求不満、懐疑、恐怖感等々の感情を繁殖させ、更にはそれらを操ります。 ですから、この感情を元から絶つには、追い払って完全に閉め出してしまうことが大切です。
そこで、その方法をお教えしましょう。
まず第一に、自分に罪悪感が根付いているかどうかをどのように見分けられますか。 まずはこれを、成人の罪悪感の兆候と名づけましょう。 ちょっとしたテストで、その重傷度がわかります。
まず、その兆候の一つに劣等感があります。 劣等感です。 これは自分が不適切、また不相応と感じることです。 自分は幸せに値しないと思ってはいませんか。 酷い叱責を受けながら育ち罪悪感が身についてしまうと、人はたとえ成功を手にしても後になって自分は本当はそれに値しないのではないかと考えてしまうような、とんでもない傾向があります。 これを成功への恐怖と言います。
こういう人間は、自分のことを価値の無い人間とか、大した人間ではないと思い込んでいるので、成功しても快適ではなく、大変緊張し、不安になってしまうのです。 事実、緊張が講じると麻薬に走ったり、アルコールに依存したりして、自滅的な行動をとるようになります。 それはまるで、誰かに見破られてしまうのではないかという、殺しがたい不安を持ってしまうからなのです。
ある本にも、何もかもウマくいくと返ってペテン師になった気分だと書いてありますが、それはペテン師症候群と呼ばれるものです。 皆さんも何かがうまくいった時に、周りから「おいすごいじゃないか」と言われたことがおありでしょう。 そんなとき、それがあなたの涙ぐましい努力の結果にも拘らず、さほど優秀でもないのにそんなことができたなんてまぐれ当たりもいいことさ、単なる偶然で、皆の言うようにたまたまうまくいっただけで次はきっと失敗するだろう、と自分でも感じてしまうことはありませんか。 こういう人たちは、この劣等感から逃れるためには、ありとあらゆることをします。 用心してください。
罪悪感の兆候の第二に、激しい自己叱責があります。 ある詩人の言葉にこんなのがあります。 邪悪なものに見せられたものは邪悪を行う。 2,3歳の子どもでさえ、激しい叱責をいつも受けていると自分自身をけなしたり、自らの心をズタズタにしたり、時には、自分自身を叩いたりして自分で体罰を与えたりするようになります。 これは、自分はまだまだ良い子じゃないかとか、大して良い子ではないという思いを自分を罰することで表現しているのです。 激しい自己叱責は、罪悪感や無能感を表す兆候です。
第三の兆候は、罪悪感によって操られることです。 あなたの罪悪感を引き出すなんて簡単なことです。 事実、人には2つのタイプがあることがわかりました。 罪悪感を植え付ける人と、植え付けられる人です。 これらの人々は、常に互いに惹かれ合うのです。 しかも、罪悪感を植え付ける人はその親も同様に植え付ける人であり、植え付けられる人もその親は同様に植え付けられるタイプです。しかし、この2つのタイプは互いに馬が合い、うまくバランスを取りながら自分たちの次の世代を同じように育てていきます。
こういう下地があるので、私たちは罪悪感を引き合いに出されると簡単に操られてしまうのです。 あなたの上司だって、あなたの罪悪感を引き出すことができますし、バスに乗り合わせた人だって同じことができます。 くれぐれも注意してください。
罪悪感の第四の兆候は、自分でもそれを利用できることです。 罪悪感と責任転嫁を惜しみなく使います。 なぜなら、あなた自身もそうされて来たのでお返しするのが公平な取引きというのです。 ですから、惜しみなく使うのです。 人間関係も、これを軸として形作られますから、何か不味いことが起きると人にこれを被らす、つまり責任転嫁をします。 問題が起きると、すぐ誰かのせいにしようとします。
面白い実験が数年前に行われました。 それは、さほど寒くない日に、あるはずもない氷を歩道に置いて、そこを通り過ぎる人がどう反応するかを見るものです。 通りを人が歩いてきます。 歩道に置いた氷を踏み、バランスを失って転びそうになります。 すると、自分の一番近いところにいた人をまるで酷く腹を立てているかのようにキッと睨みつけます。 つまり、その人のせいと言わんばかりです。 反対に、近くに誰もいなかった場合は、身体を立て直しながら、周りを見回し、本当に誰もいないとわかると地面を蹴飛ばし、踏みつけ、通り過ぎて行きます。
そうなんです。 人間には、何か不味いことが起きると、決まって誰かのせいにしようとする傾向があるのです。 いつも責められて育った人なら尚更のことです。
第五の兆候は、いわゆる被害者的発言です。 皆さん「集中の法則」を思い出してください。 何であれ、こだわれば大きくなるという法則でしたね。 ですから、被害者的発言をしていると、罪悪感も育ち、増強させ、確立させ、役立たせようとします。 被害者的発言は、できない、できないという言葉です。 自分にはできない、できないということは、潜在意識に語りかけていることであり、潜在意識は、あなたを役立たず者でコントロールも利かない憐れな者としてインプットします。 ですから、本当に何かやりたいことが見つかっても、この潜在意識が、キミには無理だ、キミには無理だ、と言ってしまうのです。
また、そうしなければと思ったとしても、どうしようもない、関係ないと潜在意識は答えます。 他にも注意しなければならない、被害者的な発言が2つあります。 1つは、まぁ努力はしてみよう。 どうであれ、努力はしてみようという言葉です。 これは本当に意味するところは、たぶん失敗するだろう、前もって断っているのだから、後でボクを責めないでくれと言っているのです。 他にも、なるべく間に合うように努力します、というのがありますが、たぶん遅れるだろうが、遅れたからといってボクを責めるのは間違いだと言っているのです。 努力だけはしてみようというのは、前もって失敗の言い訳をしているのです。
病院へ行って、医者の診察を受けたとします。 精密検査も受けて、医者から、「かなり酷い状態ですね。今すぐ入院してバイパス手術を受けなければ助かりませんよ。ここまで良く来られたものですね」と言われ、先生、手術は大丈夫ですね、と聞き返したとき、医者が、「ええ、努力はしましょう」と言われたら、どうしますか。 ちょっと待ってください。 他の意見も聞いてみたいと思いますのでとなるでしょう。
弁護士に事の成り行きを話し、「守ってくれますか」と言うと、答えは「努力してみましょう」。 つまり、弁護士は、「私の調べた限りでは結果は良くないでしょう。でも、一応引き受けましょう。努力はしてみます」と言うことです。 そして、前金を払わせようとします。
もう一つの禁句は、前にもお話しした「努力はしてみましょう」と関連しています。 「努力しています」の代わりに「やろう」あるいは「やるまい」を使うことです。 私は仕事で忙しい毎日を過ごしていますが、こんなときに誰かにものを頼んだりすると、必ず、「金曜日までにそれを届けるようには努力はしてみます」とか、「間に合うように努力はしてみます」とか答えます。 そう言われると、「あぁ、責任逃れをしたいのだな」と感じます。
私たちは「努力はしてみます」という言葉は使ってはいけません。 やれるにせよ、やれないにせよ、ハッキリとして欲しいのです。 必要なら取りに行っても良いのです。 努力はしてみましょうと言ったら、見栄を売っていると思ってください。 注意してください。
もう一つの禁句は、「だといいけどな」という言葉です。 この言葉は、自分の願望や目標に何のやる気も見えません。 この「だといいけどな」の意味は、「何かこうなるといいなと思っているけれど、そんな風になるわけはない」という意味が隠されています。 「もっと痩せたいな」という言葉の裏には、「それは無理だ」という言葉が隠されているのです。
なぜできないのでしょう。 できないわけは、すべての問題に関して回避しようとして、いつも言い訳をしているからで、どんな場合も理由付けします。 禁煙できたら良いのに、減量したいなとか、いろいろできたらいいのにと思うことがあります。 この「できたらいいのに」という言葉を使うことに、「それを達成したり、手に入れることは無理だ」と思っているシグナルが潜在意識に送られます。 そして、そのことを達成不可能な目標としてインプットし、達成するための活力、やる気、駆り立てる気持ち、欲求をあなたに与えようとしません。 ですから、被害者的発言には厳重に注意してください。
そしてまた、「はい、やってみます。でも…」という言葉にも注意しましょう。 誰かに、どうしてしないのと聞かれて、でも、と答えたら、この「でも」は消しゴムのような働きをします。 収入も増え、生産能力も上がり、人格も優れ、もっと幸せで、体重も落とせ、すべてがうまく行くのに誰かに言われて、「ええ、でも」と言ったら、その人のいった言葉をすべて打ち消していることと同じなのです。 あなたは潜在意識に不可能を伝達するので、その目標達成のための、何の努力も、エネルギーも、やる気も生まれてこないのです。
罪悪感を持ちながら育った人は、5つの特質、いわゆる兆候を持っています。 第一は、劣等感、無能感、自分は素晴らしいことに値しないと考えています。注意してください。 第二は、常に自分をおとしめて、自分を責めることです。 第三は、罪悪感を使い、自分や他人を責めることです。 四、罪悪感に操られてしまう。 五、被害者発言をする。
さて、罪悪感を無くすためには、どうすれば良いのでしょうか。 ところで、このこうはこんなにキレイに消えました。 私たちにも、すべてをうまく活かせる魔法の杖がすぐそこにあるのです。
さて、自分についている罪悪感を取り除くには、どうすればいいか、それには大変重要な2,3のステップを踏まなくてはなりません。
第一のステップは、まずはじめに、自己叱責を止めることです。 激しい自己叱責を止めてください。 もっと言えば、自分を酷く非難するような言葉を決して口にしないことです。 言ってはいけません。それが基本ルールです。 潜在意識は、あなたが口にしたことはすべて真実で、命令として受け止めます。 ですから、心からこうはなって欲しくないと思っていることは、口に出さないでください。 自分はデブだ、疲れたよとか、無理だ、こうしなくては、なんて言わないでください。 心から望んでいることだけを口にするのです。 「私は…」の後に続く言葉を、潜在意識は命令として受け止めますが、 「だといいけどな」とか「努力はしてみます」はダメです。 ただ、自分に関する積極的な言葉を使いましょう。
私は自分が好きだ、自分が好きだ、自分にはできる、絶対やってみせる、決めたんだ、決してできないなんて口にしてはいけません。
第二は、罪悪感に操られないと硬く決心することです。 罪悪感に操られることを拒絶するのです。 いつも、誰かにあなたの罪悪感を操られているとどうなるかわかりますか。 そう、あなたの人生に、罪悪感が及ぼす影響が益々増え、しかも強力になっていきます。 私の少年時代、私の家族は否定的宗教を信じ、その影響を強く受けていました。 実際、私の母などは、罪深さを強調する黒いベルトを付け、罪悪感の塊のような人でした。 私はその影響から抜け出すまで何年も掛かりました。
妻バーバラも、私と同じような家庭環境で育ちました。 そこで私たちは、本当の仕方を決めました。 それは、どちらかが一方が昔の癖に戻りそうなときには、 「私にまた罪悪感を思い出させるつもりはないでしょう」と互いに聞き合うようにしたのです。 「罪悪感を感じさせるつもりなんてないんでしょう」と言うだけで、この罪悪感によって人から操られることは無くなります。
第三に、罪悪感や責任転嫁を止めることです。 そんなものを利用しないと宣言してください。 他の人にもそれを用いることを止めるよう、子どもや配偶者にも、「罪悪感を感じさせるつもりはないでしょう」と言わせてください。 これを繰り返し、時には「もちろんそのつもりだよ」と言われても、「そんなことを言っても無駄さ。平気さ」と答えるようになります。 罪悪感に操られないように、くれぐれも注意してください。
第四は、「寛容の法則」と言われるものです。 これは最も重要な事項で、核ともいうべきもので、このセッションの真髄となるものです。 「寛容の法則」とは、腹の立つことがあっても、それを受け流し、忘れてあげることのできる人は、 健全なる精神を持っている証拠で、この人を許容できる能力こそ、人生でも幸せ、成功を決定付ける鍵となると言えるものです。 そしてまた、これこそが罪悪感を取り除く、ただ一つの方法でもあります。
あなたが人を許し、過去の嫌なことを水に流そうという気持ちは、大人として調和が取れた機能をしているかどうかを決める鍵でもあるのです。 というのは、人を責めたり恨んだりする傾向は、心が病んでいる人が共通に持っている子どもっぽい病的な傾向であり、反対に、腹の立つことを水に流し、人を許し受け入れる能力こそ、真に聡明な大人の証と言えるのです。 その通りだと思われるでしょう。
是非とも許すべき3人の人がいます。
まず第一に、両親です。 過去、両親があなたの傷つけたすべてを許すのです。 私たち大人が抱えている悩みの多くは、自分を傷つけた両親の行動を許せないでいることが原因となっているのは、調査の結果からも明白です。 手紙を書いたり、電話をして、許すと言ってあげてください。 少なくとも、心の中では許してあげることです。 100%許してあげなさい。
二番目は、周囲の人です。 誰も彼も許すのです。 何かのことであなたを傷つけてしまった人でも許してあげなさい。 水に流してあげましょう。 もちろん、中にはアイツには本当に酷いことをされたから許せない人もいるでしょうが、人を許すことは、まったく自分本位の問題です。 人を許すことは、他人をどうこうする問題ではありません。 それは単に、自分の心の平安と、心の調和の確立に係わる問題なのです。
第三、それは自分自身を許しなさい。 自分がしてきた維持の悪い、無分別な、間の抜けた、愚かな、馬鹿げたこと、すべてを許してください。 そんなことをするのは、何もあなたに限ったことではなく、私たちはみな同じことをしてきているのです。 さぁ、100%あなた自信を許してください。
最後に、もう一つやるべきことは、もし、あなたが過去に傷つけた人がいるのなら、言って許しを請いなさい。 たった一言、ごめんなさい、という、オオキやラッツ、そして勇気ない人によって、驚くほど多くの人々の人生が損なわれているのです。
人生で最も大切なことの一つは、人格を高めることです。 困難なことに挑み、正しいと信じることを行うことができるよう、人格を高めていきましょう。 それがたとえ、どんなに難しくても、また気持ちの上で無理があったとしても、それに挑戦してください。
罪悪感を取り除くにしても、十分に機能している人間になるためにも、人を許すことが決め手となります。 自分と係わりあった人たち、たとえば、昔の雇用主、あなたを傷つけてしまった友人、損をさせた投資会社、あなたを首にした上司、そして両親など、すべての人を許しなさい。 人に対して、いつまでも恨みを持つようなことは、きっぱりと止める生き方を培ってください。 そして、何度も何度も繰り返し、あの人を許そう、この人も許そう、すべてを許そう、あの人もこの人も許そう、すべてを許そうと言って忘れてしまうのです。
否定的感情から自分を解き放つ秘訣は、否定的な材料を明日へ持ち越さないことです。 それは、自分本位の行動なのですから、思うがままにすれば良いのです。 人を許すことは、あなたを解放し、他の人も自由にし、それはあなたの潜在能力の開花を急速に促すことに繋がります。
0 件のコメント:
コメントを投稿